文章を磨く道のりに挑戦:『Dr.コトー診療所』を鑑賞して

2月23日(金)は天皇誕生日である。この日が国民の祝日になるのはたぶん6回目のはずである。社会人になってからというものの、連休(3日以上の連続休暇)は、必ずどこかに行くとか、帰省することにしよう、と考えていた…

ところが、カレンダーをよく見ていなかったのもあり、三連休であると気づいたのは一週間前であった。あらかじめ予定を立てることはできたのかもしれないが、結局何も特段の予定を立てずに当日を迎えてしまった。

そこで、映画を観ることにした。学生時代からAmazonprime会員だったにもかかわらず、つい先日「アマプラ会員は、無料で観られる映画がある」ということを知り、この機能を使って自宅で鑑賞することにしたのである。

鑑賞した映画は、2022年公開の『Dr.コトー診療所』である。この映画は、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」という楽曲をしったことをきっかけに、映画も知ったというものであり、タイトルは聞いたことがあるが、実際に見たこともないし、自分から率先して見に行くという種類の映画でもなかったが、上述の理由で鑑賞することにした。

以下に感想を述べることにする(いわゆるネタバレを含むので、未鑑賞の方はご承知おきください):

0.あらすじ(一度しか見ていないのと分析しながら鑑賞したものではないため、誤解している箇所も多々あるかもしれない)

この映画は、沖縄県の方の孤島にある診療所を舞台とした医療映画である。このブログを読まれた方と、つい昨日に映画を鑑賞した自分との情報の共有をどのようにすればよいのかがわからないが、簡単にあらすじを述べると次のようになる。孤島に1つだけある診療所に都会(東京と思われる)の大学病院から若手医師が1名着任するところからはじまり、彼がすでに孤島の診療所で働いている医者(コトー先生)や島の人々との交流をしていくという物語である。ざっくりいうと。最初は若手医師は、島民の信頼を得られないものの彼のポテンシャルにある気兼ねなく人とかかわれるというパーソナリティーを生かして、徐々に島民との距離を近づけていくように思う。一方で、若手医師は孤島医療の制度的な問題意識をもっており、これはストーリーの中で一貫して島民との間の意識の不一致のようなものとして描かれる。

 

1.最初の印象:風景のフォーカス

鑑賞から約24時間が経過した今でも印象的なのは、島の自然の描かれ方がとても美しいという点である。正確に言うと、島の自然と、島民の生活の描き方が、とてもきれいである。しばしば、「南の島」という日本語を聞いたときに想起できる次のような風景:青い海、のんびりとした生活、木々が生い茂っている様子、温暖な気候、ヤシの木、、、、 こうした風景がすごくきれいに映し出されている。いまでも、この映画の自分にとっての一番の魅力は、風景をきれいに描いたことであると考える。以前にプライベートな旅行で、鹿児島県は喜界島に行ったことを思い出すが、またここに行きたい、しばらく南の島に住んでみたい、と思わせてしまうぐらいの良い描かれ方をしている。

 

2.途中からの印象:ストーリー展開の不自然さ

前節で、自然がすごくきれいに描かれているという点に言及したが、これは視覚的な側面での感想であり、これは自分にとってはすごくポジティブにとらえることができた。つまり、映画を鑑賞する人を、物語の中に引き込むということにおいては、筆者は一気に物語の中に引き込まれていった。しかしながら、物語に引き込まれた後は、ストーリーの展開に意識が向くことになったわけであるが、そこで展開の不自然さに意識が持ってかれてしまうことになった。

特に不自然さに意識を持っていかれた個所は、災害の場面以降である。島に台風がやってきて、それに伴う災害対応に診療所が向かう場面がある。この前でコトー先生は病気を患っており、家庭で倒れてしまったり、仕事にも支障が出始めていることが示唆される。多くの患者が運び込まれてくる中で、以下のような不思議な点を、鑑賞者としては観測することになる:

1)被災した患者が運び込まれてくるわけであるが、患者が心肺停止になっていて、蘇生を続けるが、不自然に復活する点

2)コトー先生は、いかにも倒れそうな様子で災害対応にあたっているが、手術の時には、まるで人が変わったかのようにめちゃくちゃ元気に仕事をする点

3)コトー先生の体調が災害対応中に悪くなり、手術が終わった直後に倒れてしまうわけであるが、しばらく動きもしなかったのに、ある時を境に急に意識が回復する点

物語であるところを踏まえると、急な展開は仕方がない(90分なり100分の枠に納めなければならない)とは思う。しかし、あまりにも現実に即して不自然すぎやしないか、という上述の点に気づいたところ、エンドロールまで見ようという気はなくなってしまっていた。余韻があまりない映画だったといってもよい。

 

3.最後に:

とはいえ、島の描き方については美しいと思ったし、また南の島に出かけていきたいと思う映画であった。

 

ここまで書いてみて、自分があまりにも文章を書くことに慣れていない点、映画を観た感想を述べようというのに、あらすじを正確に記述できない点、自分が伝えようと思っている頭の中にあるふわふわを、適格に言語化できない点にイライラしてしまう。もう少し文章力をつけて、ものを書けるようにしたい。

 

きょうは掃除を…

もう日付がかわってしまったが、昨日は自宅の(大)掃除を実施した。筆者は、定期的に掃除をする癖が全くないため、「気分が向いたとき」にすることにしている。

掃除をしながら、ふと「いちばん多いゴミはなんだろう?」と考えた。それは、おそらく髪の毛である。髪が抜けているということは、細胞がいれかわっている証拠だと肯定的にとらえることもできるが、他人の家にあまり訪問することがなく、もちろん、他の人はたいていが頻繁に掃除をする人なので、「いちばん多いゴミが髪の毛である(はずだ)」という仮説を検証することは到底できない。事実として、髪の毛がたくさん落ちているので、その分、掃除機をかけたり、ほうきではいたりすると、やりがいは感じられる。

小学校や中学校、高校までは掃除は「身も心もきれいに」といった趣旨の合言葉のもとに、ひとつの教育活動として行われているような気がする。たしかに、掃除をすることで、気分がよくなるという点は筆者も同感である。ただ、学校のように毎日コツコツというのが苦手かもしれない筆者は、やはり「気分が向いたとき」にやることになってしまうのだが…。

これからは少しは定期的に掃除をしようかな。

のんびりと過ごすことについて

2024年2月17日、北陸の富山はとてもよく晴れ渡っている。しばしば冬の北陸は「鉛色の空が広がる」と言われるが、すくなくとも今日のような天気もとくだんめずらしいことではない(今年についていえば)。これまで、20数年間を太平洋側の、今思い返せばとても温暖で過ごしやすい県で過ごした筆者にとっては、冬の青空は、当たり前の光景でありすぎた。けれども、北陸で一冬をこしてみてはじめて、「晴れ」の珍しさ、ありがたさを知ることとなったように思う。

ここまできれいに青空が広がる日は、ドライブや散歩でもしたくなる。ここ数週間は、仕事に追われていたのかもしれない。ふと窓の外に広がる青空に目をむけると、とてもリラックスしていることを実感できる。また、ときおり神経や時間を「自分に向けてあげること」の重要性を痛感する。

日常の生活では、「ながしてしまう」行為、例えば食事をとること、歯をみがくこと、風呂に入ること、など。こうした行為を、あえてゆっくりと行うだけで、「リラックスしていること」を感じることができる。最近は、といっても昔からビジネスの世界ではそうなのかもしれないが、「早く」「正確に」ということが重視されている。そのようななかで、すこしゆとりをもった生活をすることは、ないがしろにされてはいないだろうか。もちろん、仕事の場では、のんびりしようにもそれが許されることはあまりない。でも、たまの休日や仕事が終わってからの時間のなかに、「ちょっとだけのんびりする」ということを取り入れるだけでも、心穏やかに過ごすことができるのではないだろうか。もしかしたら、仕事のパフォーマンスにも良い効果を与えるという「一石二鳥」にもなるかもしれない。

すこしボーっとする時間、ゆっくりと何かをして、自分に向き合う時間を大事にしたい。

ブログを再開したい。

2024年2月15日、19時過ぎ。もう勤務先にきてから11時間近くが経過しようとしている。この時間帯になると、目が痛くなってくる。

 

昨日は久しぶりにある人のブログを読んだ。やはり自分で「書く」ということを続けていないと、書けるようにはならない。思考も停止してしまうかもしれない。書いて、書いて、書き続けていければと思う。以前も宣言した気もするが、今日からほぼ毎日更新できるように、アンテナを高くして生きていこうと思う。

20230717 瀧本いち華『おとな性教育:人には言えない男女の悩みをすべて解決する』を読んだ。

あくまでも異性愛者むけの本

性教育界隈では,ここ最近話題になっていたと思う本『おとな性教育』を読んだ。ひとつ疑問がのこるところがあるとすれば,あくまでも異性愛者向けの本であるという点。セックスが好きになれないという人のなかには,みずからの性的志向について,確定したものを持っていない人もいる。たとえば,恋愛はするが性愛はしない,など。この本では,性愛を望まない人に関しては,いわば「置いてきぼり」になっているのではないかと感じた。もし,きちんとレビューするのであれば,精読する必要があるかもしれない。

 

 

広義の「性教育」の充実を

それにしても,学校で適切に習わない広義の「性」に関しては,自発的に勉強してお互いに理解していくほかないよな,というのが正直なところである。たとえばマジョリティであるはずの異性愛についても,どのように関わればよいのかわからないという高校生・大学生のなんと多いことか。恋愛関係における,深い人間関係を避けた結果,いわゆる「身体だけの関係」になっている人も一定数いるようにみうけられる。

 

 

もっと外国から学べることが多いはず

情報教育だとか,英語教育だとかという次元の前に,まだまだ外国(例えばオランダなど)から,たくさんのことを学ばなければいけないだろうというのが性教育である。たとえば,最近自分が関心のある「アセクシュアル」という性志向についても,日本語でweb検索するよりも,英語の記事の方が充実している(まあ,あたりまえか)。

話がどんどん飛んでいくが,国力をつけるために,諸外国に追いつけ追い越せの議論において必ずでてくるのは,理数教育であり情報教育であり,英語教育である。だけれども,それは国家として外面は繁栄させるのかもしれないが,内面は繁栄させないのではないか。深みのある・中身のある人間をそだてるということの方が重要である気がする。

 

ブログの投稿について

ここ二つの記事は,ひたすら書いて投稿という流れであって,とくに何も添削をしていないが,やはり投稿する以上は,➀マインドマップ→②論点を整理→➂ひたすら書く→④添削→➄投稿 という流れを作った方が良いのかもしれない。

 

まあ,ひとまず最初は,(できれば1週間に数本程度の)ほんの少し投稿を継続して行っていく,ということを目標にしようかとおもう。それがある程度できるようになってきたら,添削ありの投稿をしてみようかな。

20230716 映画「君たちはどう生きるか」を鑑賞

きっかけ

宮崎駿監督の映画,「君たちはどう生きるか」を鑑賞した。その直後に,なんとも言えない,だが何か記録にとどめておきたいという感覚が自分をおおった。それが,ブログをはじめてみようとおもったきっかけである。そもそも,映画を一人で観にいくということはしたことが一度もなかった。今回は初鑑賞であるから,その意味でも記念になる。

 

感想

映画をみた感想を文章にしておこすのは,これまでの20数年間の人生の中で初めての経験である。ただし,感想というものは言語化されたものであるが,自分のなかではまだ言語化することすらできていない。ただただ,鑑賞して,何かを残したいという衝動にかられてブログをはじめてみたということである。

 

既視感:もちろん,ジブリ映画だからということであろう。ジブリ作品は,これまでの何作品かも自宅や金曜ロードショーなどで鑑賞したことがあるからこう感じたのか。保作をみて,「宮崎作品には通底する何かがある」ということを感じた。それは,宮崎駿監督の中に,何か哲学があるからなのかもしれない。作画の点において似ているというものはもちろんあるが,今回の作品は,これまでの作品の総集編というにおいが少し感じられた。なぜそうなのかはわからない。既視感がどこからくるものなのかもわからない。

 

今後:映画をみてすぐというのは,もしかしたらそこまで感想は出てこないのかもしれない。まあ,もしかしたら振り返ってもう一度この作品について述べたくなる気もおこるかもしれない。

 

ブログのこれから

このブログがどのような方向性をもっていくのか,これはまだわかない。ただただ,随想的にネット上に残していくというだけかもしれない。筆者の性格からして,アウトプットを定期的にしていく必要があると感じ,その場としてこれを作ったつもりである。自分が「だれかに見られることを想定した文章」を書くというきっかけ,そして「思考を言語化するということ」この二つをこのブログをとおして継続していくことができたらと思う。